このインドで最初(世界では3番目。第1号は2007年メキシコのBanco Compartamos SA)のMFI上場に対しては、賛成の立場と反対の立場があるようだ。
賛否それぞれの基本的立場は本Blog4月10日で既報の通りだが、今回はグラミン銀行のユヌス総裁が明確に反対の立場で発言しているので、今一度まとめると、
<賛成>
1.CEO Akula氏(1998年、当時有数のMFIが資金調達難に苦しんでいるのを見て、政府資金、補助金、慈善寄付に依存しないMFIを目指してSKSを創業):貧困層への無担保少額融資サービスを持続的に拡大するには、資本市場からの資金調達が必要である。
新世代のMFIとして、わが社は商業型アプローチによって、従前の方法に比較し、はるかに大きな資金をはるかに多くの貧困層に届けることができるようになった。その意味において、社会性と経済性の間にコンフリクトはないと考える。
2.Xavier Reille氏(世銀が支援するマイクロファイナンス関連のシンクタンクCGAPの専門家トップ):さらに多くの貧困層に資金を提供するために上場することは、不当な利益をむさぼることを抑止するに十分なガバナンスが機能しているのであれば、望ましいことだろう。2-3年以内に借り手の代表がボードメンバーになるかどうかを注視したい。
<反対>
1.Dr. Muhammad Yunus、グラミン銀行総裁:上場は、マイクロファイナンスの理念に反している。上場することにより、貧困層からお金を儲けられるエキサイティングな機会があるという、メッセージを送ることになる。私にとっては不愉快(repulsive)な話だ。MFとはお金のない人々がその自身のお金を自分たちの元に留めておくためのもので、それを金持ちの方へ向けさせるためのものではない。
マイクロクレジットは、お金儲けの機会として示されてはならない。それは貧しい人々の生活にインパクトを与える機会なのである。
今回の上場に先立って、創業者のAkula氏は所有する株式の一部を売却して$10Mを手にした。同氏は、その件を聞かれて記者への返答の際、同社職員へのストックオプションにも言及し、世界レベルの報酬を自社の社員にも、と強調した。だが、貧困層を対象とした事業を通じ、創業者や上場前に投資したPEが莫大な経済的リターンを享受することへの批判は強いようだ。
富裕層投資家のお金が資本調達の形で貧困層向けの無担保融資へ流入し、そこで生み出されたリターンがどのように分配されるべきか(配当の問題)、またキャピタルゲインの源泉をどうとらえるか、という点に議論は集約できるだろう。
ユヌス氏はまた、MFの利息を一般にもっと低くすべきだと主張しており、それへのAkula氏の反論(バングラデシュの地理的密集性からくる運営コストの違いと、インドでは許されていない、MFIが貸与した資金をそのまま預金させ、新たな貸し出しの原資とすることがバングラデシュでは可能なこと)もある(WSJ紙)。
<コメント>
はたしてMFIの上場による資金調達は「正しい」のか、「正しくない」のか。さらにその調達資本へリターンを返すことは「正しい」のか「正しくない」のか。こうした問い自体が私にはむなしいものに思える。
個々の社会的・経済的行為に込められた個々人の真意はそれぞれに異なるものだ。つまり、社会性実現のために利益創出モデルを活用しているのか、利益を追求するために社会性の高い事業を利用しているのか、個々の経営者の動機に占めるそれらの割合はどうかなど、外からは判断が困難である。そしてその動機の割合に応じて「正悪」が判断されるというのもうなづけない。利益の一端がリスクを取った株主へ還元されること自体を社会性追求の見地から忌避すべきか否かについても、見解は分かれるだろう。
こうした主観的価値判断の是非を問うよりも、事象の全体構造がもたらす社会的・経済的効果をできるだけ客観的に評価する方向で考察すべきではないか。
私の感覚は上記世銀系コンサルタントに近い。上場したとしても、資本市場での四半期ベースの業績向上圧力を配慮するがあまり、マイクロファイナンスの精神を踏み外して、不当なレベルの高利貸しや、見境のない安易な貸し出しとデフォルトの山に陥ることになれば、そもそも事業の健全な持続的成長は損なわれ、一挙に資本市場の信頼を失うだろう(コーポレートガバナンスの重要性)。
確かに上場を機に創業以来の一部株主は巨額のリターンを手にすることになるが、それは元本保証のない大きな経済的リスクを取ったことへの経済的報いであり、正当なものである。また、社会性(マイクロファイナンス自体が現実に貧困解消に役立つか否かの議論は別)の高い事業の規模拡張に必要な資金を外部資本市場から調達することを選択するならば、その対価として相応のリターン(継続的利益創出によるキャピタルゲインと配当)を払う(もしくは目指す)こともまた必然・当然であろう。
貧困を解消するという活動を、「倫理的道徳的に崇高な価値を希求するものであり、商業主義の“汚れ”からは決別しているべきだ」という価値観は一般的にいまだ根強いと思われる。人間には思想の自由があり、それを全く否定はしない。一方私の感覚では、企業家の利益追求と良心に従い、卑近な商業活動によって社会問題を解決していくことが目指されて「も」、違和感を感じない(これがすべての解決法と言っているのではない)。社会問題(換言すれば社会ニーズ)の多くは、ビジネスに関わる者が、企業の社会責任(藤井氏の定義)を果たすことを前提に、当然のように解決を視野に入れて活動して「も」何も珍しくなく、逆にその解決のための行動が特別で神聖不可侵なものであってはならないように思う。もちろん、企業がより積極的に貧困解消等、社会問題の解決を目指さなくても何らの法的・倫理的責めを負わないことは、キャロルの文献紹介で指摘した通り。「多元的アプローチの妥当性」と「利益」の意味・意義については過去のエントリー参照。
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